池田博明さんのサイト「WELCOME TO IKEDA HOME」にあります「佐々木昭一郎さんとのQ&A」にQ&Aの追加補足分が掲載されています。是非、ご覧くださいませ。
(3種類のQ&Aを比較するのもおつかも)



本日は第11回映画祭TAMA CINEMA FORUMRESPECT佐々木昭一郎」にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。

今回のプログラムのタイトルはすぐに思いつきました。辞書を引くとRESPECTとは「尊敬する。価値あるものに対し、それにふさわしい敬意を払う」とあります。それを裏付けるように、活躍する映画監督たちからのメッセージが届きました。




今回の上映が何らかの形で、「これから」につながっていけたら、と願っています。
参加された皆様に感謝いたします。



佐々木昭一郎さんとのQA 上映に先立ち、20の質問にお答えいただきました。

Q1 産まれてからの記憶で、最初に覚えているのはどんなことですか?

@母親の鏡台と口紅(資生堂1号と呼んでいた。)
Aピアノを弾く母親(木造家屋。8畳間。母の嫁入り道具のカワイのピアノ。その上には父が1920年代にパリから持ち帰ったシャンパンの小ビン。我が家に最も目出度いことが会った場合に皆で飲もうと決めていたが1970年代のある日、弟が突然飲んでしまった。母は嘆いた。)
Bビゼー「カルメン」序曲のSP盤(5歳の私の背丈大の電気蓄音機がその8畳間にあり私は毎日カルメン序曲をかけた。戦争が始まると桑野道子の歌やベートーベンを母はかけた。)

C母が妹を抱き、その脇で弟と私が川を見ている(近くの目黒川)夏の日ある夕刻。
これらの記憶を母の声とともに時々思い出す。これらが一体何歳の時の記憶なのか判然とせず込み入る。


Q2 日本で一番好きな場所はどこですか?
A 東京都世田谷区北沢2の186(質問1の我が家。今は代沢3と名が変わった。)もの心つくとこの住所をまる暗記し(母親による)セタガヤクキタザワニノイチハチロクと、父が死んだ時はこの住所を棒読みし駅長に伝え…しばらく記憶をなくした。


Q3 今、行ってみたい場所はありますか?
A プラハとアンダルシア(グラナダ、コルトバ、セビリアなど)いずれかに安住したい。


Q4 今、一番欲しいものは何ですか?
A 絶対に欲しくないものがある。権力だ!所詮、スターリンニズムに過ぎぬ。家、書斎、書庫なども要らない。「omnea mea porto a cum(私は持てるものの全てを、持ち運ぶ)」、と私は心臓と頭を指さす。プラハの親友ズデネク・ストロベックから教わったラテン語の格言。


Q5 今、最も興味のあることは何ですか?
A 「隣のジャンとマリーを殺してやりたいほど憎い。だからといってフランスとフランス人を全滅させようとは思わぬ」と考える権力者が、地球がなくなる日までに現れたら、私は100年後、母親と腕を組みモーツァルトを聞きに出かける。


Q6 この30年を想う時、一番に思い出すことは何でしょう?
A 母が事故死する前、カメラマンの吉田秀夫が歩けなくなった母を見舞いに来てくれた。私は母の手を握り「百まで生きよう。それで俺と結婚しよう」と母にキスをした。母に触ったのは生まれてこのかたこの時が初めてで、母は80を越えていた。(戦時中の悪しき美徳によるのか私と母の間にスキンシップはなかった。)先月、編集の松本哲夫の結婚式で吉田秀夫と会った。彼は「佐々木さん、あの時お母さんは嬉しそうだった。親不孝じゃないと思うよ」と慰めてくれた。母に何も告げずにロケハンやシナハンに出て何ヶ月も帰らないことが母が死ぬまで年中続いたのだ。大の親不孝だ。


Q7 今の佐々木さんが30年前の佐々木さんに会ったら、何と声をかけますか?
A 私が生きた時代を私は我が作品を創った時代とともに思い出す。30年前1971年は処女作「マザー」を出した年だ。30年前の自分に声をかけるなら、こうだ「お前、<作家が最後に創るべき作品を最初に創ってしまった。これからが大変だね>と遠藤利男が言ってたぞ!」(遠藤利男は処女作「マザー」のプロデューサー)


Q8 今の時代に生まれたとしたら、何をしていると思いますか?
A 同じ仕事をするが、今より数倍の作品を創る。ただしリメークではない。しかし、まず母を私の作品のロケ地に案内する。父が10年もいたカルチェ−ルラタンで母と永住する。


Q9 佐々木さんにとって「家族」とは?
A 家族とは「青い鳥」と同じだ。永遠に探し続けるものである。


Q10 映画を創りたいと思ったことは?また、創らないかという話はありましたか?

A 創りたいと思ったことはあるが、切実に考えたことはない。
話はあったが、私が切実でないから相手も萎えてしまった。ラジオとテレビが相手で目一杯だったのだ。


Q11 最近ご覧になった映画で面白かったものは?

A 是枝裕和「DISTANCE」。彼は常に新しい!
TVフィルムドキュメンタリーでは工藤敏樹「和賀郡和賀町」「富ヶ谷国民学校」。
萩元晴彦「小沢征爾第九をふる」「あなたは」いずれも再放送。


Q12 今のTV番組をどう思いますか
A 肥満が問題。演技マシーン(存在してみせることにかけて感受性不足)が問題だ。つまり充足し過ぎ。全てに余剰である。


Q13 日本のジャーナリズムについてどうお考えですか?

A 新聞は署名入りにすべし。それにより欧米と肩を並べる。
映画ジャーナリズムにおける竹中労やドナルド・リチーがTVにも現れることを望む。放送(ラジオテレビ)番組の歴史をとらえた決定的書物がない。埋没、無視、弾劾、死蔵番組を赤い絨毯番組とパラレルにとらえる感動的な書物が一冊もない。映画とか放送とかに区分しない「映像評論」の専門家がいない。大問題だ。若き<カイエドシネマ>の出番を待つ。若人には底力あり。


Q14 作品を創るとき、何に一番喜びを感じますか?

A 最も難しい質問だ。私は私が選んだ出演者の包摂力、無償性、才能に感動して創る。彼らを「素人出演者」と片付ける輩が大半だが、彼らは皆「隠れた天才たち」だ。私は彼らを多くの人の中から選び抜く。
「まず、そこに存在してみろ」と私に言われ演技マシーンをかなぐり捨てる職業演技者は今はほとんどいない。
私は、少人数で撮影する。吉田秀夫、葛城哲郎、長谷川忠明、岩崎進たちだ。私は彼らこそ隠れた天才と呼ぶ。作品を見れば分かる。才能とは、隠すことである。
私は二重映像など画像を多く重ね、花花紙吹雪など過剰照明で飾りつける映像は駄目だ。舞台にまかせればいい。


Q15 映像を創る上で、必要な事とはなんでしょう?
A 日常性の感受性のピッチをオクターブ高めたところで台本を書く。撮影にかかる時は更に上げる。そうすることで、一日の睡眠時間が例え2時間でも数ヶ月もつ。


Q16 若い世代が創る映像をどうご覧になりますか?

A 素早い。大変上手い。すばらしい!
1967年、まだ20代前半だった作曲家・池辺晋一郎がこう言った「60年代、私の曲の録音は5時間かかった。演奏者の技術が追いつかなかった。今は、1時間で済みます。上手くなったんです」。
若い映像作家への私のささやかなる注文は、逆説的で、上手くなるな!


Q17 佐々木さんの作品は、見た人の人生を変えてしまうくらいの力を持っていると思います。
ご自身が10代〜20代の頃、人生が変わるような作品(ジャンル問わず)に出会った経験はありますか?
A 創った私が偉いのではなく、見た人のほうがはるかに偉大だと思う。NHK時代いつも反響ある度にそう感じた。
 中学2年で私は英語を使う仕事につく決心をした。当時、3番館の映画は格安で母は家計をやりくりし毎日でも映画が見られる金を出してくれた。新宿の今の紀伊国屋書店の場所には40円の「新星館」、伊勢丹の前には30円の日活名画座、歌舞伎町には地球座、私が暮らす下北沢には4つも3番館があり、山手線や中央線沿線の全ての駅近くに安い映画館がたくさんあった。私はアメリカ映画から英語を学び一日中同じ映画を見ていたのだ。ある日、ギャバンとデイトリッヒの「狂恋の果て」という仏映画を見て以来アメリカ映画から離れた。「鉄格子の彼方に」(犯罪者そのものに感情移入する作品)に我を忘れ、次第に欧州映画に魅かれた。
本も乱読した。文庫本のほとんどだ。立ち読みもした。ヘッセを読まないと人間じゃないと言われ、ヘッセ、モーパッサン、ドストエフスキーなどかたっぱしに読んだ。
名画の殆どを中学2年から高校卒業までに見た。大学では英語の芝居にも出、徐々に映画から遠のいた。NHKに入りラジオドラマを創り始めた頃から全く映画を見なくなった。当時話題のヌーベルバーグ作家たちの映画もごく最近見たほどだ。
小説も読まなくなった。
何故か?
私がかかえる負債の方が、他のあらゆる作品のそれよりも重く大きいのだ。
それは計量不能だ。
そして私はいい観客ではなく、いい読者でもなくなった。
しかし、今でも中学2年から見た好きな映画はたくさんある。中でも「ジェニーの肖像」ブニュエルの「小間使いの日記」も大好きだ。
私は誰の作品にも影響されない道を選んだのだ。


Q18 100年後、佐々木さんの作品はどうなっているのでしょう?
A ネガを誰が、どのように保存するかの方が問題だ。今はヨコシネDIAの笠原征洋が保管してくれている。笠原は私の全作品のネガ編、タイミングをしてくれた男だ。
NHKは保存しないだろう。私が編集室に「夢の島」などを隠しておいたところ犯罪者扱いされたし、場所がないのだ。大量生産、大量消費、そして恐るべし誇大広告の時代だ。ますます激しくなるだろう。私は大広告が大嫌いだ。私のラジオの作品は百年持つと思う。そのつもりで念力入れた。しかし、どれもNHKにはない。音質が良くないからと、捨てられてしまったと聞く。音質を気にするのは粗悪な演出論と同じだ。映画青年たちが昔、飲み屋であれはどう撮ったとかを論議するに等しく粗雑だ。さて、ラジオ作品の方は幸いにも聴視者たちが持っている。どこでどう手に入れたのか!私の映像作品もラジオと同じ運命だろう、多分、誰かがDVDにし保存するのかもしれない。
あるいは、とんでもないことが起きて、ケッヘルのような人物が200年後に発掘するかも知れないが、これは夢の範ちゅうだ。


Q19 今もよく、夢を見ますか?
A 夢は最大の楽しみだ。ラジオ「おはよう、インディア」(1966)のケン少年に私はこう言わせている。「死んだら夢も見られないんだからね。」夢を見られる限り何も要らない。今のうち夢を見るんだ。いつもの喫茶店のあの席でね。


Q20 次回作について、何かイメージがありましたら。
A まず、本を書く。
本(フィクション。集英社)を書く約束をして4年になる。映像創りはそれから考える。大まじめに。寺山の作品はやりたい。九条(寺山映子)さんとも約束だ。つげ義春も、三島由紀夫も、井上ひさしも。鈴木志郎康と創った台本も撮りたい。みな若い時に会った人たちだが、多分、私らしい映像になる。
私は木島始の詩が好きだ。氏の訳だがラングストン・ヒューズの「黒人は多くの川を語る」は感動的だ。原詩より氏の訳はすばらしい。川シリーズの第4作をミシシッピ−で撮る予定で密かにロケハンまでしたが3作で打ち切られた。木島氏のその訳詩を存分に活かすつもりだった。私は画家・本多克巳氏の作品が好きだ。本多氏が木島始氏と創った絵本が好きだ。私は岩佐なをの詩と銅版画が好きだ。私は清岡卓行氏の作品の全てが好きだ。野球の詩は涙が出る。もし次は何を創るかと聞かれたら、清岡作品だ。
そうこう考えているうちに夢を見なくなるのだろう・・・・最初に像が消え目を閉じ、そこから音が聞こえなくなるのだ・・。
創るということは戦場を疾走するのと同じだ。愛憎悪、生老病死五怨情念。ひと山越えたと思ったらまたひと山越。本を書くほど大変なことはない。台本なら葛城哲郎や吉田秀夫や出演者の声が聞こえるが本は何だ。掌を見つめても何も見えないし聞こえない。
 それから、
母を撮りたいと思う。しかし母はいない。1985年「東京オン・ザ・シイテイー」という60分の作品(吉田秀夫撮影)で倒れる前の母に出てもらったが・・・。
「夢の島」は、神泉駅のホームですれ違いの電車に乗っていた赤いワンピースの女性が残映となり夢に出てきて、発想のもとになった。母の場合は、母の霊が私に住みつき動くことから始まるだろう。夢幻能だが映像にしたい。しかし誰も予算を出す人はいないだろう。私は長い疎開生活の果て、終戦4年目でようやく母に引き取られた。中学2年の2学期だった。母はミシンで生計を立て自分のワンピースも縫っていた。母は薄いピンクの袖無しを着て私と教室に入り転入の挨拶をした。その時の顔、姿、声を私は永久に忘れない。何を描くか、考えてもいない。感覚的にしか考えない。従って、考えているうちに私は死ぬだろう。

(‘01 10/20質問:TAMA映画フォーラム実行委員 黒川由美子)




インターネットを通じてお会いした方々から、メッセージをいただきました。
「微音空間」は中尾幸世さんのファンのあおせさんがつくったHPです。女優さんとしてだけでなく、朗読家としての現在の活動も知ることが出来る、貴重なサイトです。そして佐々木さんのドラマに関する資料も豊富にあり、今回の上映に際して大変参考にさせていただきました。その「微音空間」の管理人、あおせさんのお言葉です。


 映画祭とはそぐわないかもしれませんが、朗読家 中尾幸世という「楽器」について書いてみたいと思います。
中尾幸世さんの朗読会に出かけるたびに、これは朗読だけれど、でも朗読という一言に収めてしまうには抵抗があると感じていました。
どうしてそう感じるのだろうと考えるうちに、これは朗読ではなく演奏なのではないのかと思うようになったのです。では、中尾幸世さんがどんな楽器を演奏しているというのか。ピアノ、それともバイオリン・・・
私はその楽器を世界でただ一つしかない楽器「中尾幸世」だと思うのです。この「中尾幸世」という楽器は他の楽器のように旋律を奏でるわけではありません。言葉そのものが、その身に隠し持つ響きを、小さな音だけれど、音叉のように純粋に響かせる、そんな素敵な楽器だと思うのです。
微音空間管理人 あおせ


♪「微音空間」 http://isweb21.infoseek.co.jp/cinema/aose/
微音空間では佐々木昭一郎全作品集ビデオ・DVD化と佐々木氏の著書「創るということ」復刊のためのリクエストを積極的に呼びかけています。ご賛同くださる方、リクエストよろしくお願いいたします。
DVD化→サイト「たのみこむ http://www.tanomi.com/metoo/naiyou.html?kid=10596
復刊→「復刊ドットコム」http://www.fukkan.com/vote.php3?no=1148 

★他にも、佐々木昭一郎関連でこんなHPもあります。今回の映画祭での上映も宣伝してくれました。
「すくぅらっぷ館」 http://www7a.biglobe.ne.jp/~scoorap/ (鮎川想さんのHP
Nutrients of my Life http://www.bbap.cc/~matja59/index.html (まてぃあさんのHP  (付記 The best of timeこちらに移転されています。)

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学生時代に京都で佐々木昭一郎氏の作品の上映会をして17年が経つ、当時は2年に1度でも佐々木氏の新作をTVで観ることができるのが幸せだった。再放送を望むよりもむしろ自分達の手で上映してしまうのが速い、学生だからお金は無いが時間はある。蜘蛛の子を散らしたように関西の大学の映画部に宣伝の協力を求めてまわったり、関係者への取材などでたちまちのうちに半年の準備期間がすぎた。
Part1では佐々木氏を、Part2では中尾幸世さんを招いて座談会も行われ、それぞれの期間のべ600人・800人のファンが押しかけた。佐々木氏の作品のピークと言える『四季〜ユートピアノ〜』のあと、川シリーズが完結してちょうどのベストタイミングだった。
私達は日本中各地の学生に大規模な自主上映会が広まって、佐々木氏の新作の一助になればと願ったが、二、三の反応もあったが上映会にいたらず、当時の学生達も今や各方面で活躍している。
NHKアーカイブスやインターネットの普及によって新しい扉が開かれようとしている、TAMA CINEMA FORUMの黒川さんが今日上映会をして下さる。
今はHPの掲示板によって顔を互いに知らない者達が意見を交換しあい、いつのまにか情報だけが一人歩きをしてしまう。上映会はそんな人たちが実際に出会って語り合える場だ。となりで観ている人に失礼のない程度に尋ねてみてほしい、繰り返し使われていたクラシックの曲名はご存知ですかでも、なんでもいい佐々木氏の描き続けた鉛筆書きの まる がより大きく広がっていくことだろう。
01 10/24MER

ピッコロ・フューメ 木本典孝
     ピッコロ・フューメ主催の佐々木昭一郎を特集した上映会は、京都で‘84年と’85年に開催されました。
当時のスタッフ、木本さんが提供された上映会の資料は「微音空間」で見ることが出来ます。

 

ひとつのカノンと「円環」(ピッコロ・フューメ上映会パンフレットより)  池田博明
勤務校の器楽部のレパートリーに、パッヘルベルの「カノン」が加えられた。2、3年前のことである。練習のとき、演奏会のとき、その旋律が流れてくると、いつも佐々木さんの『夢の島少女』の映像を思い出す。
 「これ、あたしが見つけたの」と言って、ピアノの鍵盤をひとつひとつ押さえていった少女、中尾幸世さんの音にこめた想いを感じる。これからも毎年演奏していってほしいものだ。
 もっとも、「カノン」の演奏を器楽部に頼んだことはないし、これからも頼もうとは思わない。永遠に、そっと続けていってほしいのだ。

 ところで、「カノン」という形式の音楽では、同じ主題が少しずつ、ずれて繰り返される。ちょうど川の流れのように、絶えず繰り返されて、豊かなリズムを作りだすのである。最近、まるでその「カノン」のような経験をした。
 「にじの会」という佐々木さんの作品の上映会を中心にして集まった人々の会が、東京にある。先日、初めて会に出席して、会の人々の佐々木作品との出会いを聞いているうちに、いつか時間が十年前にもどったような気がした。
 『四季・ユートピアノ』との出会いを語る人、『アンダルシアの虹』との出会いを語る人、その言葉は『夢の島少女』に出会った僕たちのそれと、まったく同じであった。その人なりの言葉で語っていた。
 作品は異なり、見る人の世代は異なっているのに、どうして感動を語る言葉や語りくちは同じなのだろう。
 無意識の深みから、時間を超えて浮かびあがってくる佐々木作品の記憶。その秘密を解く鍵が、そこにはあるのかもしれない。

 『コメット・イケヤ』の全盲の少女は「世界はどこで切ってもつながる円環(まる)なのだ」と言っていた。ユングは「円環は個人の全一性、“自己”を表す像だ」と書いている。傷つき、分裂した自我を統一する理想型が円環(まる)なのだ。
 わたしたちは円環を求めるのである。
 
 『四季・ユートピアノ』『川』の調律師・栄子はA音の音叉を持っている。A音は世界中どこでも「赤ん坊の声」だと佐々木さんは言う。その音はすべての出発点なのかもしれない。というよりも円環なのかもしれない。
 アメリカで客死したジョン・レノンはこう言っていた。「ピアノでひとつの音を出すと、そこにすべてのハーモニックスがあるということは、誰でも知っていますよ」と。
 “ハーモニックス”、美しい言葉である。
 ヴォネガットの小説『タイタンの妖女』には“ハーモニウム”という水星の歌を食べる、まるでかつてのヒッピーたちのピース・サインのような生物が登場する。


調和と円環。
 
 言葉ではなく音を、
 物語ではなく瞬間を、
 虚構(ドラマ)ではなく真実(ドキュメント)を、
 全体ではなく断片を、
 生活ではなく生命を、
 絶望ではなく希望を、
 科学ではなく芸術を、
 特殊ではなく普遍を、
 社会ではなく個人を、
 単純ではなく複雑を、
 暗黒ではなく陽光を!

   
1985年2月11日)
池田博明さんは『夢の島少女』放送後、藤田真男さんと共に「日曜日にはを消せ」というミニコミ誌を発行。当時、批評家・マスコミ等に正当に扱われていなかったこの作品を真っ先に評価し、広めました。池田さんは現在高校の理科の先生。ご自身HPの中でも佐々木さんに関するページがあります。

http://homepage3.nifty.com/~hispider/ikedahome.htm

‘85年、ピッコロフューメの上映会に寄せられた文章は今回の上映にもふさわしいと思いましたので、掲載させていただきました。