あおせ(旧管理人)の中尾幸世観 (2010/05/29) このサイトにはあまり私自身の文章を載せていません。
これは特に大きな理由かあるわけでなく、いえ、理由として文章が下手だという揺るぎない事実はあるのですが、私あおせの発するメッセージめいたものがサイトをご覧いただく方に中尾幸世に対して偏見を与えてしまわないかと不安を感じたためです、もっとも、サイトを作るという作業をし、それをインターネット上に載せているわけですから矛盾しているのですけど・・・。
とりあえずはこの「幸世的空間考」に私の文章をまとめて載せるつもりでいます。

さて長い前置きになってしまいましたが、私の中尾幸世との出会いは『川の流れはバイオリンの音』からになります。もちろん、出会いといっても私からの片方向な出会いです。
新聞のテレビ欄にあったNHK特集『川の流れはバイオリンの音』、
なんか魅力的な題だなと晩ご飯を食べながらドラマを見たのが始まりでした。具体的な感想は別に書くと致しまして、中尾幸世(A子)に対して最初に感じたのは妖精のような不思議さと強さでした。
これは多分に中尾幸世の声とその眼差しによるものかもしれません。そして人は自分にないものに憧れると申しますが、私は中尾幸世に自然体を見ました。
あまりにも当たり前の自然体でした。あくまでも普通の人です。しかし、この普通ということが不思議であり、憧れであり、魅力であったのです。
このドラマの世界は、あまりにも普通だけど、私たちの送っている日常ではない、私たちの通常ではない世界が広がっており、中尾幸世がその中で自然体で生きている。
視点を変えると、私たちが日常様々の雑事の中で如何に普通でない、ゆがんだ生活を送っているか。それが見えてきたのです。私たちが時代とともに選択し得なかった世界に中尾幸世が自然体にて矛盾なく存在している。私にとって中尾幸世は選択し得なかった世界の象徴でもあるわけです。

実物の中尾幸世に遭遇したのは、テレビというブラウン管を通さずに直接見たのは、ピッコロヒューメ主催の佐々木昭一郎作品集上映会でした。
上映の後、中尾幸世を囲んでの座談会がありました。私は最前列に座りどきどきしながら中尾幸世を見ていました。座談会の中で中尾幸世の視線がレーザ光線のように思えたことを、いまでもはっきりと覚えています。
質問者が話している間、中尾幸世はほとんど瞬きをせずに質問者を見つめています。その視線は鋭く静かでした。
レーザ光線は光が分散しない、ですから遠くまで届きます。同じように中尾幸世の視線は私たち質問者の心の奥底まで届く、そんなふうに思えて仕方がありませんでした。

初めて中尾幸世のオーディオ・ドラマを聴いたのは『ひろば・まぼろし』でした。その後、『DQ』『天の記憶』など中尾幸世の出演するオーディオ・ドラマを聴きました。私はオーディオ・ドラマが中尾幸世に与えた影響はかなり大きいと捉えています。特に演出家角岡正美氏のドラマは役者に演技としての、普通の話し方を要求しているように思えます。オーディオ・ドラマにつきましては私、かなりこだわりを持っていますので、また、別の文章にてくどくど書いていきたいと思います。
朗読、そして朗読会という形でのコラボレーションにて、中尾幸世は言葉の持つ響きを探求しています。「目は口ほどに・・・」と申しますが、中尾幸世の眼差しと言葉の響き、これらを思うと、現在の彼女の朗読活動も『夢の島少女』より連綿と続く川の流れの中にあるのかも知れません。